熊倉功夫

わび 日本人の美意識の一つで、貧粗・不足のなかに心の充足をみいだそうとする意識。『万葉集』に「わびし」「わぶ」という語がみえるが、いずれも恋が実らないで苦しむ状態を示し、けっして美意識といった価値を表現することばではなかった。平安時代の和歌でも「恨みわび」というように恋の用例も多いが、その一方で、不遇の身をかこつ失意の心境を語る表現としても現れる。失意の生活は不如意であっても、世俗を離れたわびた生活に風雅を感ずる心が生まれ、これに秋冬の季節感も加わって枯淡、脱俗の美意識としてのわびが登場する。つまり、本来は、いとうべき心身の状態を表すことばであったわびが、中世に近づくにつれて、不足の美を表現する新しい美意識へと変化したのである。 中世の人々は禅宗の影響もあって、満月よりも雲の間に見え隠れする幽かな月を賞でるようになり、完全ならざるものの美を発見した。わびもそうした中世的美の一つで、室町時代後期の町衆文化である茶の湯と結び付いて急速に発達した。16世紀前半にわび茶を発展させた武野紹鴎によれば、わびとは「正直におごらぬさま」であり、藤原定家の「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮」に象徴される無一物の境涯であった。しかし紹鴎やその弟子の千利休のわび茶は単なる貧粗・無一物の世界ではなく、一方にぜいたくでみごとな器物に囲まれていた。みごとな名物をそのまま見せるのではなく、粗末なものと対照させ、粗末な姿をまとわせることによって名物のより深い美を引き出し、また一方で粗相の美を提示したのである。初期のわび茶の発想は中世的不足の美と桃山文化の華やかさをあわせもっていた。江戸時代の松尾芭蕉はわびの美を徹底し、「月をわび身をわび拙きをわびて、わぶと答へんとすれど問ふ人もなし、猶わびわびて、佗テすめ月佗斎がなら茶歌」の句をつくっている。いっさいを否定し捨て去ったなかに人間の本質を、とらえようとする透徹したわびの美意識をここにみることができる。